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2015年12月21日 (月)

縄文人はどんな言葉を話してたか

 日本語のルーツや日本語は「どの言語族」に属するのか、似ている点があるアルタイ語(トルコ語、蒙古語、満州語、朝鮮語など)ほか多くの研究がなされたが答えはなく、日本語は世界の言語の中で「独自・独立した特性」のものらしい。

 最近の遺跡発掘で縄文の人々も集落に定住し、結構豊かな生活をしていた事が分かってきた。彼らは一体どんな言葉を話していたのか。現在の我々と通じる点はあるのだろうか。 

証拠は全くないが、時間を遡って探ってみた。

 

1.どんな言葉を話していたか不明の時代

 縄文時代は12000年くらい前からBC600年くらいまでで、そこから弥生時代になり約900年続いた。しかし縄文時代は勿論、弥生時代でさえ「どんな言葉」を話していたかの「記録も傍証」もない。

 時代は下って607年に聖徳太子が定めた「十七条の憲法」が現存する最も古い文書であるが、これは漢文調で書かれている。下記はその第一条「和を以って貴としと為す」の文である。

 夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條

  夏四月丙寅戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條を作る。

 一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨、亦少達者
  一に曰く、を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ。人皆党有り、また達れる者は少なし。

 ただしこれは「漢文風」であるが「正しい漢文」ではないらしい。また読み方(発音)も「漢文調」か「日本語調」かは不明であるが多分後者(上記青色細字の訳文)だろうと次項等から推定される。

  

2.初めての日本語文書、万葉集

 結局、日本語で書かれた最も古い文書は「万葉かな」で、7世紀後半から8世紀初めに編纂された古事記、万葉集まで下らなければならない。

 ただし「万葉仮名」の最も古い資料としては、「稲荷山古墳」から発見された5世紀の刀剣に刻まれた「八代の系譜の人名115文字」があり、「漢字の音」で名前を表現していた。万葉集の300年前の「記録への努力」の跡である。

 次の詩は大和朝廷が百済救済に出兵する途中、著名な万葉女性歌人「額田王」が661年伊予熟田津で出陣に際して詠んだものである。聖徳太子が17条憲法を書いた約50年後である。 

 額田王歌

 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞

  にぎたつに 船のりせむと 月待てば 潮もかないぬ 今はこぎでな

この詩の表現形式がいわゆる「万葉かな」で、名詞等の単語には「漢字」をそのままの意味で「訓読み」で使い、助詞等には「漢字の音」を充てて表現している。

1,500年前の「額田王の言葉」を現在の我々はほとんど理解できる。

 万葉集には天皇・貴族から地方の庶民に至る約4,500首の歌が収められており、方言も含む「古代日本語」の宝庫である。それらもほとんど現在の我々は理解できる。

 という事は「額田王」から1,300年ほど前の「縄文後期」に縄文人が話していた言葉とも「相当の類似性」があったのではないか?

 

3.縄文人はどんな言葉を話していたのか

 スペイン語、イタリア語は「一目瞭然」の兄弟言語であり、それらとフランス語、ドイツ語も近親関係にある。またそのドイツ語と(私は識らないが)北欧語も201512
「ゲルマン」というキーワードを通して「素人目」にも分かる兄弟言語らしい。

 これら同じ語族の源流(祖語という)から各々が別れ始めたのは大体2,0005,000年前と言われている。

 日本語が属する言語が世界にないという事は、日本語の源流は弥生時代をはるかに超えて「縄文中期よりも前」に遡るという事になる。

青森県に縄文中期の5,500年から4,000年前に、500人近い人々が生活していた「三内丸山遺跡」がある。彼らは「狩猟・採集」のほかに、村落周辺では「栗の栽培」を行い、また遺跡から発見された「翡翠などの宝石や土器・石器類」から、かれらは広く日本海側の各地と交流していた事が分かっている。

その食衣住の生活と文化レベルは相当豊かだったようである。

 このような「社会生活や地域交流」を行っている以上、当然「言葉」はあり、また地域間で「ある程度」通じる言語共通性があったはずである。彼らは「はるか先人・源流」からの受け継いだ言葉を話し、そしてそれを後世に伝えたはずである。

 我々は1,400年前の額田王の和歌を「ほぼ完全」に理解できる。彼女から1,300年ほど前の縄文後期の人々の言葉を、彼女の時代の中大兄皇子らも理解できたのではないか。そうであれば現在の我々も縄文後期の人々の言葉を理解できるかもしれない。

 もちろん現在でも「日常会話で使う単語」には「方言による相当の違い」があるが、それらを理解すれば縄文人とも会話ができたかもしれない。ロマンがある話である。

 

4.弥生人も縄文文化と日本語に同化した

 弥生時代はBC600年からAD300年くらいまでであり201512_2、渡来人による「大きな変革」があった時代である。そこで言葉の断絶・混乱は起こらなかったのだろうか?

 弥生人は大陸から数百年の間、何回にもわたり、水田稲作、鉄器、文字などの優れた「技術と文化」を持って渡来した。その高い技術と生産性ゆえに「人口が急増・勢力拡大」し、7~8世紀には大和の支配勢力となった。
 しかし彼等は「征服者」ではなく、反対に大陸から「亡命または新天地」を求めて来た人々であったため、縄文人と「共生・混血」しながら、長い年月の間に「縄文文化と日本語」に同化していったと考えられる。

 もし弥生人の言葉が日本語に大きな影響を残しているなら、大陸のどこかに「その痕跡」があるはずだが、それは存在しない。

 反対に弥生人は故郷で「中国語系」の言葉を話していたはずだが、今わが国にその痕跡は残っていない。縄文人が話していた「日本語に同化」したはずである。

    *****   *****   

 縄文人が「どんな言葉」を話していたのか「全て想像の域」の話である。しかし現在の我々から「額田王」の歌、中国系語を話していた渡来弥生人の日本語への同化、そのベースに確固とあった「縄文言語と文化」と辿り、縄文人ともある程度は「言葉が通じる」のではないかと想像するのは楽しい。

 

付記)縄文顔と弥生顔

 現在、縄文人と弥生人の子孫の比率は約3:7であるが、彼ら彼女らの顔には次の特徴がある。

・縄文人:眉は太く濃く、目は奥二重、唇は厚く、鼻は高い。顔に凹凸あり彫が深い。

・弥生人:眉は細く薄く、目は細く、目は一重で、唇は薄い201512t。顔全体はなめらかで平坦。

  縄文人は古モンゴロイドであり、氷河時代に北から氷河を渡って日本にやってき
た。東北、裏日本に多い。

弥生人は新モンゴロイドであり、古モンゴロイドが極寒の氷河時代をシベリアで数万年すごす間に「寒冷対応」のためこの顔になったらしい。揚子江周辺、朝鮮半島から来たので九州、西日本に多い。

 両者の混血は進んでいるはずだが、それでも3:7位の比率で今なお二つの相貌があるのは興味深い。以上

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コメント

沖縄人や、九州の熊襲人も縄文人では? だから、氷河期に北から来たわけではありません。おそらく南から来て一部は更に北に移動しきモンゴル地方まで到達したのでしょう。
7000年前の九州の大噴火の時に日本から大陸に避難していった人たちが4500年後に大陸の蛮族に追われて日本に舞い戻ってきたのが渡来弥生人なので、もともと似たような言葉を使っていたはず。だから痕跡が残っていないのは当然です。

縄文時代からすでに栗や漆を縄文人は栽培していたようです、稲作も縄文時代から始まっているようです。

当時、大陸(中国)寒くて稲作には適していないらしいです、日本は稲作に適した状態だったらしい~

稲作は日本から?始まった?

縄文時代のものからは人殺しの武器が見つからないというのが縄文時代の特徴らしいです、弥生人(渡来人)が持ってきたのは残念ながら文化でなく争いだったようですね。


縄文人かもと言われる、インカやインディアン・・・トウモロコシやジャガイモももしかして縄文人の流れをくむ人達が作り上げたもの?共通することが武器を持たない、そして金(ゴールド)が好き?

縄文土器、火炎土器をみると、縄文時代の日本が明らかに豊かで平和、この時代日本のほうが進んでいるのは明白のような気がします。

週2日しか働かなくても食っていけたという話もありますね。

 奈 良大仏の銅を採掘したのが村名(香春町採銅所)の採掘遺跡横に生まれ、私の容貌は弥生系です。銅採掘の帰化人の子孫と思います。縄文時代、黒曜石・翡翠・接着剤のアスファルトが広く交易し武器による死亡の遺骨の出土もまれといいますから、先のコメントの方の言われるように対等、友好的の通じ合う言葉で話し、稲作文化を持ち渡来した大陸からの人も同化したのでしょうね。この時、中国は春秋戦国時代から秦の始皇帝の時代。残酷な始皇帝は征服地に残虐で多くの人が日本に逃れてきた亡命者・難民です。縄文人は暖かく迎えたのでしょう。ならば弥生時代に文字の記録が、そして古老に聞き書きの縄文末の記録があればと思います。
 言葉は身体、基本植物動物名などは万葉集から変わってないので縄文時代から共通と思います。

 奈 良大仏の銅を採掘したのが村名(香春町採銅所)の採掘遺跡横に生まれ、私の容貌は弥生系です。銅採掘の帰化人の子孫と思います。縄文時代、黒曜石・翡翠・接着剤のアスファルトが広く交易し武器による死亡の遺骨の出土もまれといいますから、先のコメントの方の言われるように対等、友好的の通じ合う言葉で話し、稲作文化を持ち渡来した大陸からの人も同化したのでしょうね。この時、中国は春秋戦国時代から秦の始皇帝の時代。残酷な始皇帝は征服地に残虐で多くの人が日本に逃れてきた亡命者・難民です。縄文人は暖かく迎えたのでしょう。ならば弥生時代に文字の記録が、そして古老に聞き書きの縄文末の記録があればと思います。
 言葉は身体、基本植物動物名などは万葉集から変わってないので縄文時代から共通と思います。

知っている限り遡って5代は九州ですが、ハプログループの遺伝子検査では、日本の基礎を作ったらしい縄文人でした。沖縄やアイヌに割合が多いそうです。弥生系は関東や真ん中の方から入ってきたのではないでしょうか。弥生系の顔つきだからといっても、現在の在日韓国人・帰化人の国内人口とは別の話です。
自分の顔は、耳たぶも小さいし特に濃いとも思いませんけど、争いを好まないという点など納得がいきます。
日本以外の東アジアの色使いや言葉に生理的に馴染めません。
(他国を否定をするわけではありません。)

https://u-gene.jp/column/haplogroup-m7/

ほとんど誰も触れないけど、顔が濃いだの薄いだの、日本においての人種的で陰湿な争いになってますよね。

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